「英語教育」2017年3月号掲載                                              

 

 英語教育改革の波を乗り越えるために 現場教員が考える弊害と解決策

 元大阪府立旭高等学校教諭 坂本優美子

 

主に関東の私立大学で導入され始めている4技能入試が英語教育の変革を引き起こそうとしている。しかしながらこの改革の波は私達の日々の授業にいか程届いているのだろう。改革は必ず起こさなければならないと筆者は考える。なぜなら今の英語教育では生徒達に社会で生きていく上で必要な力をつけているとは言えないからである。彼らに必要な力とはこれまでの教育の主の目的であった知識の蓄積にとどまらず、それらを客観的に評価し、自らの意見やそこから派生する新しい考えを構築する力であり、またそれを相手に効果的に伝え納得させ、変化を生み出す力である。そして改革成功の鍵は私達教員の改革への主体的参加にあると筆者は信じる。迎える改革の波に飲み込まれるのではなく、逃げるのでもなく、それを自らの成長のきっかけと捉えそこに自ら飛び込み、必ずや乗り越えるためには何が弊害でその解決には何が必要であるかを私達それぞれが真剣に考え、声に出し、それらの意見の集約が改革を成功に導くことを願いこの文章を記す。今論文では筆者が考える弊害とその解決策を述べるが、紙面の都合から後者を中心に論じたい。

 

弊害1教科以外の異常な忙しさ

校務分掌、部活動指導、多岐にわたる担任業務。この上に教科指導となると毎日が“自転車操業”で変革するのに必要な自己研鑽の余裕は全くない。教員の業務の根幹は教科指導であるにもかかわらず、現実的には優先順位の下位に置かざるを得ない状況にある。2013年にOECD(経済協力開発機構)は参加国30ヵ国中、日本の教員が最も多忙であると報告している(53.9h/週、平均38.3h/週)。

弊害2:知識・読解偏重入試に対応する責務

受け持つ生徒達が入試において高得点を取るべく指導することは私達の重要な責務の一つである。しかしその責務を英語教育の目的と捉えてしまうと、英語教育はただの限定的知識と技術の習得の場と化してしまう。

弊害3:英語教育=混合教科(座学+実技)という考えの欠如から派生する様々な弊害

ある言語が使えることはその言語で多くのタスクができることを意味し、タスク完遂にはその為の知識と技能が必要である。生徒に膨大な知識の習得を求める一方でそれらを自らの技能として使えるようになる為の複数回にわたる実際の練習が絶対的に必要なのである。 英語科は座学と実技の両側面を持つ混合教科であり、そうとらえた英語教育には様々なレベルでの変革を要する。そしてその具体的な教授法や評価の方法を私達教員は学ぶ必要がある。

弊害4:教員の「変化への恐れ」

  私達教員それぞれには長年試行錯誤を繰り返す中で確立してきた教授法があり、それらは私達の教員としてのアイデンティティーを支えている。それらを大きく変えなければならないことは私達にとって大きな挑戦であり脅威である。しかしながら私達が何の為に英語教育に携わっているのかを考えるとき、その挑戦に挑むことがその目的達成への正しい道であると確信せざるを得ないのではなかろうか。

 

4.英語教育改革を実現化する為の具体策

  英語教育改革を阻んできた4つの弊害を提示した。これらを乗り越えるための具体策5つを示す。

具体策1:4技能測定する入試改革

英語教育改革を実現させる為の強力な具体策のうちの一つは既に整いつつある 。冒頭で触れた4技能入試導入である。入試に4技能が入ることで学校英語教育が今の形態からの変革を求められるというpositive washback (Anderson & Wall, 1993; Bailey, 1996)が起こると予想される。しかしながらこの4技能入試導入が英語教育改革の最重要のagent(担い手)では決してないことを私達は自覚する必要がある。つまり4技能入試が自動的に現在の英語教育の改革を起こすわけではないのである――それは、最大のtrigger(きっかけ)ではあっても、最大のagentではない。私達教員が最大のagentであることを忘れてはいけない。

具体策2:教育のワークシェアリング(学校・教員・職員・家庭・地域・国)

前述のように現在の学校教育は何もかもを抱え込みすぎている。例えば朝起きられない生徒にモーニングコールをかけるなど生徒達の基本的生活習慣にもかかわり、奨学金申込みや外部試験の申込など本来保護者や生徒本人が担うべきものまでも学校教育が担い出席管理、膨大な書類作成など教員でなくても担える仕事もほぼ全てを教員がこなしている現状がある。この日本の教員が抱えている異常な状況は、前述のOECDの報告でも明らかにされている。教員は教育(教科指導・人格形成)に専念するべきであり、国民や国はそれを実現しうる環境を保障すべきなのである。私達の未来の宝である子供たちの教育の為に国、地方、学校、家庭が協力し、分業することが今こそ必要なのだ。家庭が本来するべきことは家庭に返し、教育以外の仕事で学校が担うべきと国民が判断するものには、教員や事務職員を増やし、地域内の人材からボランティアを募る等で教育業のワークシェアリングをすることが必要である。OECDは参加国30か国の国や地方団体の教育費への支出率をGDP比で報告しており、日本は3.8% (平均5.8%)と参加国内で最低であるという結果が出ている。教育に今より多くの資材を費やし、今より多くの人材、団体が教育に関わることが求められる。

具体策3:教員の研修機会の増加、それを保証するための具体策2の整備

前述のように4技能を生徒達に習得させる英語教育を実現するには、その授業者である教員がその具体的な方法を習得することが必要不可欠である。そしてその教授法はこれまでのものとは大きく異なるが故、教員が受ける研修は複数回に渡りしかも半年~1年かけるものでなければならないと判断する。全教員がその研修同時に受けることは現実的ではないことから、各学校の1~2名が時間的保障を受けたうえで研修に参加する、そして学んだことを還元するために校内研修を複数回行うという案であれば現実的ではなかろうか(現在文科省が実施しているカスケード研修もこれにあたる)。そしてこの研修を3年行えば1校3~6人は研修を受けた計算になり、教員の半数近くは研修を受けることが可能である。これを実現するためには各学校で講師時間を増やす等の財源が必要であることは言うまでもないが、この研修は改革を成功させるためには絶対に必要である。そして具体策2でも触れたように、教員が研修に参加し得る時間的・物理的支援のために教育のワークシェアリングを実現する必要がある。

具体策4:英語教員を目指した理由に後押しされる「変革する勇気」

これまでの具体策は物理的変革であったが次に述べる具体策は教員の内的変革であり、これが最も重要であると考える。それは「これまでのTeaching Styleを変えてもよいと思える勇気」であり、それは「生徒への愛情」、「生徒達に英語を学び使えることの喜びを伝えたいと思う情熱」、「より良い授業のために学びたいと思う向学心」に後押しされていると考える。これらの多くは私達が英語教員になった理由と重なるのではなかろうか。私達の内的変革、いや、かつて抱いていた思いの復活または再認識と言うべきかもしれない。私達の誰もが経験の浅い教員である頃はそれらを抱き、教員としての行動の拠り所としてはいなかっただろうか。しかしながらその思いを抱き続け且つその為に行動することを、日々の業務に忙殺される中で忘れてしまってはいないだろうか。また教員としての実績を積むなかで自らの教授法を客観視する必要性を感じなくなっている私達になってはいないだろうか。

具体策5:学校外に英語を使う環境の創出

語学習得には知識と技能の習得が必要であり、技能の習得は実際にそれを使ってみることでしか上達できない。日本はESLと違いEFL環境であることから語学を使う環境を作り出すことが有益ではなかろうか。そこでその作り出された環境が参加する誰にとっても有益になるものはないかと思案した。「学校教育、観光業界、語学学校、外食産業を巻き込んでの英語村」を提案する。

「学校教育、観光業界、語学学校、外食産業を巻き込んでの英語村」で出来ることの案

案1:観光業インターンシップ

例えば大阪府であるならば、世界遺産や観光地がある京都や奈良、和歌山県が近いのでその観光案内業を体験できるインターンシップを生徒に体験させる。生徒は事前に数回観光地の説明等を英語でする研修を受けた後に、実際に外国人観光客を現地に案内するツアーガイドにアシスタントとして参加する。顧客となる観光客には低料金で利用できるようにすることで利益の還元をする。

案2:All―Englishのレストラン

日本食であるならば、その食べ方、伝統についても英語で説明できるよう事前に研修を受けた後に実際にレストランにて接客を体験する。顧客となる観光客も低料金で利用できるようにする。

案3:大学教員による出前授業

日本の大学に在籍する教授に英語による講義を依頼し、授業内容は英語村運営団体がある程度指定することで、その方向性、質を保つ。

案4:日本が誇る伝統や技術の説明、体験、通訳体験

外国人が興味を持つ日本の技術(伝統工芸、工業技術など)、日本の伝統文化・サブカルチャーの専門家を招聘し、外国人が学び、実際体験できる場を提供。プロの通訳に入っていただき日本の生徒も通訳業を体験し、自国の文化を学ぶ機会を提供する。

 

5.全国の同僚と政府と社会に訴えたいこと

自分の中にある夢物語を記したという自覚は十分にある。しかし筆者のような一般の教員達が自らの苦悩とそこから生まれる夢物語を声に出し、共有し、変革の建設的主体者となることを夢想する。改革成功の鍵を握るのは、自分達の英語教育が成功しているとは言えないことを十分に承知し、それ故苦悩し、模索し、自分の場所で小さな改革を試みる悩める私達一般教員達の改革への参加であると断言したい。私達が本務である教科指導に専念することが許され研修が受けることができれば、その小さな改革は必ず大きな改革を生み出す。だからこそ日本の社会と政府に訴えたい「教育という偉業を私達皆で力を合わせて成し遂げましょう」と。私達の宝である子供たちが英語の扉から多くのことを学び、学んだ知識や得た技能を駆使して世界の色々な場所で豊かな経験を重ね、自らと周りの世界をも幸せにできる個人に成長できるために。そしてその手助けを私達皆で支えるために。迎える英語教育改革の大波を皆で乗り越え、皆がそこから飛躍できるように。

参考文献

Anderson, J. C., & Wall, D. (1993). Does washback exist? Applied Linguistics, 14, 115-129.

Bailey, K. M. (1996). Working for washback: A review of the washback concept in language testing. Language Testing, 13, 257-279.

OECD. (2013). Education at a glance. http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/002/index01.htm

OECD TALIS. (2014) 「2013年調査結果の要約」 http://www.nier.go.jp/kenkyukikaku/talis/

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アメリカの大学院で4セメスター学んで驚くこと(その7)

 

テキサス州立大学院で支援教育(Special Education)と識字教育(Reading Education)を学んで驚くことシリーズのこんどこそ最後になります!この前のもので最後だと思っていたら、もう一つ大きいのがありました!最後で6つ目になるのは、「州統一テストの結果がすべて学校ごとに発表され、しかもその結果で最終的には閉校になる」です。これを知った時本当に衝撃でした。「こんな事日本でも採用されたらどうなるのだろう?」「日本ってぬるま湯だな・・・」いろんなことが頭を駆け巡りましたが、アメリカではここまでしないといけない状況があったと言えます。詳しく述べます。

 

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2001年ブッシュ政権にて“No Child Left Behind (NCLB)”Actが採択されました。1965年にジョンソン政権にて貧困や不利な境遇にいる子供たちの救済のために採択された“Elementary and Secondary Education Act”の改訂法と位置付けられていますが、NCLBは範囲を広め、初等中等教育全体の質の向上めざし「すべての生徒が2014年までに数学と読解において熟達レベルに達すること」という目標を立てました。採択当初からその非現実的な目標が批判されていましたが、その予想どおり2014年にこの目標を達成した州は一つもありませんでした。NCLBは次の4つの基本原則からなっています:

1.テスト結果についての説明責任

2.科学的に成功が実証されているカリキュラムや教授法の使用

3.親が選べる選択肢を増やす

4.州からの資金使用決定に学校の決定権をふやす

これを受けて、すべての州は州統一テストを開発し、その結果を一般に公表することが義務付けられています。例として、私の子供たちが通う小学校Cowan Elementary Schoolのレポートを載せておきます。

https://www.austinisd.org/sites/default/files/dept/cda/docs/post2013/2015-2016/227901183_5.pdf

幸運なことに、Cowan Elementaryは州統一テストであるSTAARテストで非常に良い成績を出しています。

 

テストの結果とともに、Adequate Yearly Progress (AYP)を達成したかどうかも公表されます。AYPは学区と学校が2014年までに熟達目標を達成するために、各年に到達しなければならない学力の目標をしめしています。AYP達成は教員や学校にとって大きな関心ごとです。なぜならAYPの不達成で最終的には閉校になるからです。詳しく説明しましょう:

  • AYP不達成2年目:同じ学区で良い結果を出している学校に生徒を転校させることを許可しなければならない (これにかかる費用は学校が負担)
  • AYP不達成3年目:学校が無料で生徒に個人指導を提供する
  • AYP不達成4年目:州による矯正的介入 (次のうちの少なくとも一つを選択:教職員を入れ替える、新しいカリキュラム導入、学校運営の主導権を部分的に州に譲渡)
  • AYP不達成5年目:州による学校再編成(次のうちの少なくとも一つを選択:学校をチャータースクールとして再編成、州が学校運営全てに責任を持つ)

これについて学んだ授業にて、クラスメートの一人が自分の知り合いの学校が閉校になって、職をなくしたと話をしていました。前にも書きましたがアメリカの学校には転勤はありません。自分の勤め先の学校が閉校になればそこで職を失うわけです。だから、AYP達成は教員にとっては死活問題になるわけです。

 

NCLBは採択当初からアメリカの教育にただならぬ影響を与えてきました。NCLBは教員としてのスタイルや信念を変えることを強いることが多々あることから、NCLBを“悪法“とみなす教員が圧倒的に多いようですが、NCLBがもたらしたものには弊害も恩恵もあるようです。この法案が引き起こした変化の例は:

  1. 3年生以降に受ける州統一テストの中心のカリキュラムとなり、テストに出ない教科(社会・理科)がおざなりにされる
  2. Evidence-based (科学的根拠がある)がある教授法が使われる
  3. それ以前は高い成果を求められなかった生徒達(障がいのある生徒、英語を第2言語とする生徒、経済的困窮家庭の生徒等)達にも他の生徒と同じ基準が求められる。

ちなみにNCLBは2015年にオバマ政権で “Every Student Succeeds Act (ESSA)”して継続されています。

 

ハフィントンポストの記事によると、NCLBが採択された翌年にはPISAのアメリカの数学の成績が9位であったのに対し2009年には31位にまで落ち込んだことからも、州統一テストを生徒に受けさせることで生徒の学力が上がることが言えないことが国内の研究機関によって2011年に証明されました。詳しくは以下のウェブにあります。

http://www.huffingtonpost.com/pauline-hawkins/nclb-and-common-core_b_5236016.html

 

さて、このことから日本の教育を振り返ってみたいと思います。日本で同じように都道府県統一テストが開発されその結果が学校ごとに発表され、その結果によって学校が改編されたり、教員が辞めさせられたりすることになったらどうなるでしょう?教員の暴動が起こるでしょうね・・・教員がよく口にする言葉に「教育とはすぐに結果が出るものではない」があります。数字で教員の成果を測れるものではない・・・。確かに一理あります。その時結果が出ないことが多くあるのが教育です。ですがその言葉に安住して自分の教育を振り返らず、自分が思っていた結果が出なかったときには生徒を責める教員がどれだけ多いことか。また同時に、自分の教育が上手くいっていないことを自覚し自己変革の必要を強く感じていながらも、日々の忙しすぎる業務で心も体もいっぱいになっている教員もどれだけ多いことか!今の超ブラックとも言える異常な労働環境の中でも自己研鑽している教員は実際います。ですが彼らのような“スーパー教師”は教員全体の2~3%ではないでしょうか。残念ながらスーパー教師だけでは変革はできません。スーパー教師が核になって、おそらく教員の30%を占める変革の必要を感じながらも行動に移せていない教員を巻き込むことで、変革は実現可能に近づけると思います。このような教員からのボトムアップ的な変革の動きと、政府や都道府県教育委員会からのトップダウン的な変革の動きが必要なのだと思います。教員の「変革しなければ」という思いと、政府の「変革しなさい」という命令の利害一致しているのがまさに今ではないでしょうか?英語教育に関しては「4技能指導」であり、全教科に共通しているのは「アクティブ ラーニング」でしょう。どちらも現状の教育とは随分かけ離れていることから、変革には相当のエネルギー、財源等が求められると想像します。ですが、私は変革は可能であると思います。なぜなら教員の多くは、少なくとも30%は今の教育の限界を感じ、変革の必要性を感じているからです。だからこそ、政府には教員が変革できるための物理的環境整備を保証して欲しいと心から願います。物理的環境設備には、教員が本務に専心できる環境が第一にあり、第2に新しい教授法を学べる研修に参加できること等です。

 

NCLB, 今のESSAから私達日本が学べることであると私が考えることは:

  • 統一テスト実施だけでは、生徒の学力向上に結び付かない。
  • 教員が使っている指導法のすべてについて、本当に効果があるのかどうかを検証する必要がある。
  • 教員や学校が自らの教育・指導の効果を客観視できる指標が必要である。それをもとに各教員・学校が自らの指導方法を改善できる仕組み作りが必要である。
  • 上の指標を公開し、説明責任をはたす。
  • 改革成功させるには、政府からのトップダウンな改革と教員からのボトムアップの改革の方向性が一致していることが条件で、日本においては今がその時である
  • 改革成功させるためには、そのための物理的整備を政府が保証することが絶対に必要である。今の忙しすぎる労働環境では、改革したくともできない教員が多すぎる。

 

勝手なことを思うままに書いてしまいました。私が考えるようなことはすでに今までも、他で語られていることであると想像しますし、突っ込みどころも満載であるとも認識しています。ですが,日本で教師を長年続けた後にアメリカで教員になるために大学院で教職免許を取得しようとしているというのも、なかなかないシチュエーションであると思います。その中で私が感じる事が日本の教育が良い方向に向いていく何らかのヒントにならないかとの思いでこのブログを書いています。

 

参考文献

http://www.edweek.org/ew/section/multimedia/no-child-left-behind-overview-definition-summary.html

アメリカの大学院で4セメスター学んで驚くこと(その6)

テキサス州立大学院で支援教育(Special Education)と識字教育(Reading Education)を学んで驚くことシリーズの最後になります!最後で5つ目になるのは、「アメリカの教員の離職率の高さ」です。ハフィントンポストの記事によると新しく教員になった内の50%が5年以内に退職、または学校を変わっているとあります(ちなみにアメリカの教員には転勤はありません)。詳しくは以下の記事を参照してください:

www.huffingtonpost.com/2014/07/23/teacher-turnover-rate_n_5614972.html http://www.friendshipcircle.org/blog/2012/02/01/the-top-10-challenges-of-special-education-teachers/

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教員の不足は長年アメリカでは問題になっています。そのための施策も国レベルで取られ、そのうちの一つに私もお世話になっています―TEACH Grant と言われるもので、特に教員不足が著しい分野(支援教育、ESL、バイリンガル教育、数学、科学など)の教員になろうとする学生に2年間を限りに年間40万程度支給され、その受給者は卒業後4年間指定された学区で働くことが義務付けられています。指定された学区とは優秀な教員が集まりにくい、つまり貧しい学区で働くことを意味しています。「学区によって教育のレベルが違う」という感覚は日本ではアメリカのようにシビアに感じることはないと思います。日本では府、県レベルで教員が採用試験によって選定、各学校に配置され、さらに転勤もあることから、学校間の教員の質の均一性を保つ仕組みがありますが、アメリカにはこの仕組みはありません。アメリカでは学区ごとや州レベルの採用試験はなく、送られてくる履歴書や面接を通して校長が教員を採用します。それゆえ転勤もありません。こうなると学区が設定する給料や各学校の評判によって教員の質が左右されることは言うまでもありません。つまり裕福な学区に優秀な教員が集まり、そこに長くとどまる傾向がでてくるのです。

 

アメリカでは教員の離職率がなぜこんなにも高いのでしょうか?アメリカで教員免許をとることは日本よりもずっと大変です。例えばテキサス州での教育実習は次の2段階あります:

  • 1段階:Practicum(実習):指導教員のもとで1セメスターに60時間(週5時間)実習校で働く
  • 2段階:Student Teaching(1セメスター間で無給) or Internship (1年間で給料支払われる)

また、アメリカの大学では修得単位数で学費が大きく変動することから「教員になる」というはっきりとした意志のある者しか教員免許を持っていないはずです。目的意識がはっきりあるのに離職率が高い理由は何なのでしょうか?上の記事では教員が職を離れる理由に「サポート体制のなさ」「孤立した労働環境」などが挙げられています。日本でも同じような問題はあるでしょうが、日本では起こった問題を「学年団」というチームで取り組むという体制が出来ていると言えるのではないでしょうか?アメリカでは日本の学校のような「学年団」というコンセプトは希薄なようです。つまり学年団内の生徒間や教員間、また生徒と教員間のつながりが日本のように濃密ではないようです。「持ち上がり」もないようです。新任教員が問題に直面した場合当該教員個人で解決することが求められることが多いのかもしれません。実際に教員としてアメリカで働いた経験がまだないのでこれにははっきりした確証はありません。ただ子供たちが通っている小学校の先生たちや、行事の様子から私が個人的に感じていることです。

 

今の私には保護者としての観察と大学院の授業を通じて得る情報でしか、アメリカの教員事情を知り得ることは出来ませんが、その中で私が考えるアメリカの教員の離職率の高さは「生徒指導のやりづらさ」にあるのではと推測しています。このことについてはこの投稿の一つ前“驚くことの4つ目:停学の数がやたらと多い”でも触れましたが、「銃社会であるが故に、生徒の問題行動に教員達が対峙できない」ことと、「生徒間内の多様性」が生徒の問題行動を複雑にしているのではと私は考えます。これらはあくまでも私の推測でしかありません。実際に自分がアメリカで教員になってみないとわからないことです。

 

「アメリカの教員の離職率の高さ」から日本の教育を振り返ってみたいと思います。日本ではアメリカほど離職率が高くないとしても、若い教員の離職率が高くなっているという報告があります。しかしこれは日本の新入社員全体の離職率が高くなっているという流れから考えると、教員に限ったことではないようです。しかし教員に限って言えることもあります。それは最近メディアでも聞かれるようになった「学校現場の超ブラックな労働環境」です。教員の世界は本業以外の仕事が多すぎて残業、土日出勤が当たり前、あまりの忙しさに本業の授業準備に時間がかけられないという事態が長年続いています。本業以外の仕事の種類と量が年々増えてきて、本来最も時間と精神を注ぐべき授業づくりにそのしわ寄せがいっているのです。これは忌々しき問題です。国の未来に関する問題であると私は思います。なぜなら国の未来は子供達への教育にかかっているからです。前の投稿(アメリカの大学院で4セメスター学んで驚くこと―その5)にも書きましたが、今の日本は教員の“善意”“情熱”に甘えすぎています。教師であれば“善意”や“情熱”があることが当たり前で、“善意”や“情熱”があれば超劣悪な労働環境でもやっていけると考えられているのです。そんな教員を私は沢山知っています。実際教員達は劣悪な労働環境にあっても、自らの様々なことを犠牲にして生徒達への“善意”“情熱”のために身を粉にして働きます。教職とは生徒達への“善意”や“情熱”がなければ務まらない仕事であるけれども、教育行政はそれを当たり前のこことして甘えるべきでは決してありません。教育行政は教員が無理なく本業に専心できる環境整備をするべきです。そして私達国民は教育に国の未来がかかかっていることを認識するべきです。そしてその教育が疲れ果てた教員達に託されていることに大きな危機感を覚えるべきです。教育改革の動きが今の日本では盛んに叫ばれていますが、その改革の内容に「教員が本業に専心出来る物理的環境づくり」が含まれない限り、その改革はこれまでの改革と同じ道をたどるでしょう。多くの現役教員達と新任教員達が持つ「教育を通じて生徒を幸せにしたい」という“情熱”“善意”を長年保っていることができる、そしてそれらを体現化するための授業・行事づくりに専心できる環境整備が、教育改革のためには指導要領改訂よりもずっと重要なのではないかと思います。学校がブラックな労働環境のままであれば、そこに敢えて入って来ようとする教員志望の人数が減ることで教員の質も下がり続けるでしょう。これは既に大阪や東京などの大都市では、すでに指摘されていることです。そして、せっかく採用した教員もブラックな労働環境に耐えられず離職率が高くなっていくことも十分考えられます。離職率が高くなれば、教育の質が下がることは言うまでもありません。繰り返しになりますが、日本の教育改善のためには、教員達の労働環境の改善が大前提なのです。

 

 

 

 

 

 

アメリカの大学院で4セメスター学んで驚くこと(その5)

テキサス州立大学院で支援教育(Special Education)と識字教育(Reading Education)を学んで驚くことの4つ目は「suspension (停学)の数がやたら多い」ということです。この数は驚異であると同時に、「そりゃ、そうなるはずだよな」と納得してしまえることでもあります。教員は生徒の問題行動に対して太刀打ちするすべも、また勇気もなくて仕方ないのだと私は思います。その理由は「銃」です。「銃」が社会に出回っていることで、生徒の問題行動に対し教員はどうしても弱腰にならざるを得ないのだと想像します。 もし自分がアメリカで教員をしていたとしたら暴れている生徒に対峙できますか?その生徒が銃を持っている可能性はこの国ではゼロでは決してないのです。そして成長過程にある生徒たちは正直何をしてかすか分からないのです。私にはできません――少なくとも日本で教員をしていた時のように、体当たりで指導することなんてできません。銃を持っているかしれないという恐れの前では、教員として指導しなくてはという使命感もかき消されてしまうと思います。教員達が恐れていた悪夢が現実となったのが1999年に起こった「コロンバイン高校銃撃事件」です。その後教育機関での銃撃事件が起こり続けているこの国では、教員が生徒の問題行動に対して対峙せず、深刻ではない問題行動が起こった時にでも、その指導を問題行動を専門に扱うISS (下に説明)に委ねるという流れができているのです。

 

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http://www.motherjones.com/politics/2015/10/columbine-effect-mass-shootings-copycat-data から引用。コロンバイン効果としてその後74件のcopycat(模倣犯罪)が報告されている

 

この先の内容理解のための背景知識を紹介します。アメリカにはsuspensionには何種類かあります。軽いものからIn-School Suspension (ISS):校内に設置され1時間単位から生徒を収容する部屋。ISSには複数の専門の教員が常駐し、問題行動発生時にはその場所に駆けつけ、その後の指導に携わる。 Out-School Suspension (OSS):校外に設置された施設で2日まで生徒を収容できる。Disciplinary Alternative Education Program (DAEP):校外に設置され3日以上のSuspension中に収容する施設。Suspension(停学)の上に Expulsion (放校)があり、その処分を受けた生徒はまた別の施設があります。 またコロンバイン事件以降から中学校・高校には警察官が常駐している。

 

具体的な数字を挙げます。これらはテキサス州内の中学・高校での停学・放校の数字とその学問への影響を研究した報告書“Breaking Schools’ Rules: A Statewide Study of How school Discipline Relates to Students’ Success and Juvenile Justice Involvement (2011)”に載っている内容の一部です。

  • 公立の中学・高校生の54%の生徒がISSでの停学、31%の生徒がOSSでの停学を経験したことがある。
  • 停学・放校を伴う案件のたった3%のみが州が停学や放校を義務づけるものであった――残りの97%は学校判断による停学・放校である。

 

この数字すごくないですか?公立の中高生の半分以上が、問題行動を理由に停学(1時間単位も含む)を経験しているのです。二つからだけでもわかるように、この報告書は学校の停学・放校処分の乱用を指摘しています。停学は生徒たちの成績に多大な影響を及ぼします。なぜならば停学中にその生徒のための学業支援などは義務づけされていないため、停学が重なるほどその生徒は勉強についていけなくなるのです。もともと停学になる多くの理由が不適切な言語使用、不服従などのようなマイナーな案件であり、それらの案件の理由は授業についていけないことが大きな理由なのです。つまり授業についていけない生徒たちが、授業中に不適切な行動(暴れる、不服従など)をとり、教室を追い出されてISSでの指導を受ける。ISSでは学業指導がないことから、その生徒の勉学の遅れがさらに進むという負のサイクルが生まれているのです。

また、同報告書は人種間の偏りも指摘しています。

  • 83%の黒人男子生徒、73%のヒスパニック男子、59%白人男子生徒が少なくとも一度の停学を経験している。

 

アメリカの学校文化は白人文化を根底にして形成され、生徒に求められる姿勢・態度や校則もそれに則っていると言えます。それから外れる言動・行動が停学の理由になっていることも多々あると思われます。そして停学を受ければ受けるほどその生徒は教育を受ける機会を奪われているのです。

 

このことから日本の教育に還元できるものは何でしょうか。幸運なことに日本は銃社会ではありませんし、日本がこの先銃社会になることもあまり考えられないので日本の教育とはずいぶんかけ離れているとも感じます。しかし、このことから、日本の教育を振り返ることはできます。私はこのことを学んだ時、「日本の教員は本当にいろんなことを抱えすぎだな」と感じました。教員はやはり「教科指導が命」です。しかし同時に、「生徒指導が盤石であってはじめて教科指導が成り立つ」ことも多くの教員が知り得るところでしょう。アメリカのISSの様に、問題行動を専門で扱える教員団があって、彼らと、教科担当や担任教諭との連係プレイができれば理想だと思います。現在の日本では、教員達が教科指導も生徒指導もまた部活動まで担当しているという・・・・きっとアメリカの教員にすれば「あり得ない」状況にあると思われます。日本の教員の「教育への情熱」に甘えすぎの構造だと言わざるを得ません。日本の教員がもっと教科指導に専心できる物理的環境づくりを本気で考えないと、いつまでも停滞し続ける教育しか提供できない学校でありつづけるでしょう。 

 

 

 

 

アメリカの大学院で4セメスター終えて思う事(その4)

テキサス州立大学院で支援教育(Special Education)と識字教育(Reading Education)を学んで驚くことの3つ目は生徒指導や生徒理解に関することですー「生徒の問題行動に対してEvidence-based(科学的根拠がある)である方法論が確立されてそれが実際に使われていること」です。問題行動とは様々な程度のものを指します―指示に従わない、規則を破る、不適切な言語使用、いじめ、器物破損、生徒間の喧嘩、教員への攻撃、ナイフ・拳銃等の持ち込みや使用。

その方法論の一つを紹介します。この方法論は問題生徒のみを対象とするものではなく全校生徒を対象にした、そして全職員を巻き込んだものです。アメリカでは問題行動が多い学校で採用が検討されその数は年々増加しています。これを学んだ時の最初の印象は「アメリカではここまでしないといけないんだ」でしたが、日本の学校ではどの部分が活用可能で、活用に適していないか等を考えさせられました。その方法とはPositive Behavioral Interventions and Supports (PBIS)です。日本語では「ポジティブな行動的介入と支援」と訳されているようです。実はこれを書く際にウェブ上に日本語でのPBISの説明はないものかと期待しないで探してみたら、ドンピシャであったので紹介します。しかもPBISの権威であるDr. George Sugaiが2013年にPBISについて日本教育心理学会の総会で講演されたときの資料のようです。その資料がこちら

http://www.pbis.org/common/cms/files/pbisresources/PBIS%20Dr.%20Sugai%20JAEP%20Revised.pdf

ここにPBISについて詳しく日本語で書かれています。興味がある方は見てみてください。

上の資料は大量の情報でもあるし、読みこなすには時間もかかるので要約してみます。

PBISとは:

  1. 伝統的な懲罰的教育の反省から生まれている(懲罰はその場しのぎの効果しかない)
  2. 自閉症の生徒に有効であるApplied Behavior Analysis (ABA)=行動分析学から生まれている。ABA由来でPBISに活用されている考え方の例:
  • 行動は学ぶことで習得される、つまり問題行動は学ぶことでなくすことが出来る(”Human behavior is learned, thus behavior can be unlearned.”)
  • 全ての行動には目的がある("Every behavior has a function." )。つまり問題行動すべてに目的(例:”授業中に騒ぐ”という問題行動は”教員や級友に自分に注目させる”という目的)があるので、その目的を達成できる別の方法(”教員や級友に自分に注目させる”という目的達成のために別の方法”クラスのリーダーなってその役割を果たすことで注目を集める”)を生徒に教授することで、その問題行動を使わなくても目的は達成できることをしめすことが出来る。
  • 問題行動を誘発する刺激を出来るだけ取り除く。例えば廊下での問題行動をなくすために、”右側通行を徹底し、立ち止まらない”とするはっきりとしたルールを徹底して教授、標識を提示することで常に注意喚起する。
  • 好ましい行動を誘発し持続させる為にその行動に対してpositive reinforcement (報酬)を与える。報酬には“Good job! ”などの言語による称賛や物品(鉛筆、お菓子、玩具など)と交換できるポイントを含む。
  1. 問題行動と学業成績の間には相関性がある、つまり問題行動が減れば学業成績はおのずとあがり、問題行動が増えれば学業成績は上がる。
  2. 問題が起こって後で対処する懲罰のReactiveモデルから、問題が起こる前に対処するProactiveモデルへのシフト
  3. 問題の原因を生徒自身に見出すよりも、その問題行動を誘発する環境の中に見出す
  4. 全校生徒対象としており、全教職員や地域を巻き込んでいる。そして、PBIS成功のために80%の教職員の協力体制が必要と言われている。
  5. 全ての生徒のニーズに応えるため、3層構造になっている: Universal level (全校生徒対象ではあるが80~90%の生徒に効果があるとされる), 2. Secondary level (5~10 %の生徒に効果がある), 3. Tertiary level (1~ 5%の生徒に効果がある)。3つめの層 ”Tertiary level” の上に特別支援教育がある。PBISでは一つ目の層は全校生徒の約80%にのみ有効であり、それに反応できない生徒たちを第2の層で、それにも反応示さない生徒は第3の層で対処するという。それにも反応できない生徒に対しての特別支援教育がある。どの層であっても、すべてEvidence-basedな教授法を使用するが、層が進むにつれて支援の程度と頻度が高くなるという仕組み。下の図の右側が問題行動に対処する3層構造で、左側が学業問題に対処する3層構造です。

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     PBIS Office of Special Education Programs (OSEP) Technical Assistance Centerより引用

  1. 全ての判断はDataに基づいている。PBISでの全ての判断、たとえば問題エリアの特定、生徒の層の移動、PBISが機能しているかの判断はすべてDataを取ったうえでの判断である。Dataの種類として、ODR(Office Discipline Referral = 校長扱いの問題行動、学区に報告義務のある案件)の数、実際観察による問題行動発生の実際の数字等がある。

こうしてPBISについて書き出してみると、日本での生徒指導・生徒理解に活用できることが多いにあるということに改めて気づかされました。「活用できる」というより、「活用すべき」点があると言うべきでしょう。なぜならば、日本での生徒指導は事後指導の懲罰が中心であり、懲罰の効果はABAによる人間行動の研究では否定されているのです。もっと詳しく言うと、「好ましい行動に対する報酬が与えられる環境において懲罰は効果があるが、懲罰のみが与えられる環境では懲罰には効果がない」のです。懲罰中心の生徒指導が生徒の問題行動の防止に大きな効果がないことは、教員、特に指導困難校での経験がある教員であれば合点がいくのではないでしょうか?私達教員にPBISの知識があれば、彼らの問題行動に別の対処が可能になり、なによりもその問題行動が起こらないような働きかけができるでしょう。私が過去に受け持った卒業までたどり着けなかった生徒達も、私や学校がPBISの知識とその実践があればそのうちの数人かでも違う未来があったのではと真剣に思います。

 

しかしながら、PBISには私が大きな違和感を覚えるものがあります。それは上の2で挙げたABAの中で挙げた“報酬”に関してで、アメリカの教員の中にも違和感を覚える教員が少なくはないようです。彼らの主な主張は「生徒として当たり前の行動をすることに、なぜ報酬を与える必要があるのか?」です。日本の教員にもそう感じるものが多くいることは容易に想像できます。私の違和感は“報酬”そのものというより、報酬の種類にあります。例えば「授業中にトイレに行っていいチケット」「宿題をしないでいいチケット」という報酬には違和感を覚えます。この他に「変なソックス履いてきていいチケット」「制服を着てこないでいいチケット」「玩具、お菓子のような学校とは関係のない物品」などには、私自身は大きな違和感を覚えませんが、日本の多くの教員にとってはそうではないと想像できます。

 

報酬の数種類に違和感を覚える私ではありますが生徒に報酬を与えること自体には大賛成です。ですが「PBISの貢献度にたいして教員にも報酬を与える」と授業中に学んだ時、「マジで?」と言いそうになるほど驚きました。しかもその種類を聞いたとき、「どないなってんねん?」

と大阪人である心の声が自分の中で響き渡りました。その種類でもっともびっくりしたのが「校長が褒美としてその教員の授業を担当する」です。どうですか、これ?「アメリカの教員にとって授業って何?」と思いませんか。少なくとも私にとって「授業とは教員の命」です。やむを得ないない事情で他の誰かに代わってもらうことはありますが、そんなご褒美でその責務を免れるというという考え方は・・・授業は教員にとっては「やりたくないもの」というメッセージになりませんか、生徒にとっては。 日本人で、日本で教師をしていた自分が近い将来アメリカで教員として働くことが出来た時、きっとこれ以外にも違和感を覚えることに出会うのだろうと想像します。でもお互いに“違う”ことではなく、お互いに“共通すること”にフォーカスしていきたいなと強く願います。そして“違う”ことを他者理解や、自分や他者や組織全体の成長のきっかけと捉える自分でいられるよう、褌を締めなおす気持ちでいます(褌なんて履いたことありませんけど!)。

 

参考文献

PBIS Dr. Sugai JAEP Revised.

http://www.pbis.org/common/cms/files/pbisresources/PBIS%20Dr.%20Sugai%20JAEP%20Revised.pdf

PBIS Office of Special Education Programs (OSEP) Technical Assistance Center. 

https://www.pbis.org/school/mtss

アメリカ大学院で4セメスター終えてーその3

  テキサス州立大学で支援教育(Special Education)と識字教育(Reading Education)を学んで驚くことの二つ目は「数ある教授法がResearch-based、 Evience-based (科学的根拠)のあるものを使うことが法律で定められていること」です。特に支援教育に関しては科学的根拠がある教授法を使うことが主流であり、その程度が普通教育よりも高いという事実。

  大学院で勉強する中で様々な教授法を学びました。例えばLD(学習障害)を持つ生徒達にreading を教えるのに適した教授法の例としては PALS(Peer Assisted Learning Stratigies)がありますが、この教授法が科学的根拠があるのかということが、ウェブサイトWhat Works Clearnighouse (WWC) http://ies.ed.gov/ncee/wwc/FWW  で調べることが出来ます。

WWCでのPALSの評価はこちらです。http://ies.ed.gov/ncee/wwc/EvidenceSnapshot/364

ここで示されている事を挙げると、Alphabetic に関しては+14の評価(-50 ~ +50)が認められています。

    また数ある教授法について教員が学べるウェブサイトが沢山あります。その内容が驚くほど洗練されていてそこで教材をダウンロードできたりもできます。一つの例を紹介します。支援教育ではベスト1か2に入るVanderbilt Universityが運営しているIris Centerです。Iris Center内でPALSについてのwebpageが

http://iris.peabody.vanderbilt.edu/module/pals26/ です。PALSについて知りたい方は是非閲覧してみてください。

  私はこの事実を知るなかで自分が携わってきた17年間の教員生活を振り返ります。いろんな思いでいっぱいになり、そしていたたまれなくなります—思いの多くは”後悔” ”罪悪感” ”反省”が占めるなか、そこから”希望”が生まれてきます。日本の教員はとても熱心ですー全員とは当然言えないくとも、半数以上の教員は生徒の成長の為に日々身を粉にして働いています。他の先進国と比べると教育にお金をかけている比率が低い国であるにも関わらず、一定の成果を世界的にも残してこれているのは日本の教員の熱心さが大きく寄与していると私は思います。ですが私達教員は、生徒たちが今現在、またこれから先を生きていく上で本当に必要な力につけるべく授業づくりをしているとは決して言えません。更に言えば、日本の教育は”教員主体”であり、”目先の目標中心”になっているのではないでしょうか。”教員主体”だから多くの教員が慣れ親しんだ教授法とは違うものを受け入れることに抵抗し、その教授法にどのような効果があって、何の力をつけているのかを振り返る必要を感じない。”目先の目標中心”だから高校3年生の暗記中心の授業を疑問を感じずに進め、「この参考書暗記出来たら~大学合格はかたい」と伝え、断片的な英語の知識の獲得が英語学習のゴールだと生徒達に思わせてしまっている。この傾向は日本に限られたものではなく、アメリカにもあるようです、少なからず。ではアメリカと日本の違いは一体何なのでしょう。それは生徒間に存在する多様性の差だと思います。多様性が誰の目にも明らかであり、多様性を前提とした授業作りが求められるアメリカと、多様性は隠されたものであるが故、多様性は考慮しない、もしくは多様性を否定する授業作りになっている日本との差です。日本の教育がアメリカの教育から学べることの一つとして、”多様性を前提とした授業づくり”ではないかと私は思います。程度の差こそあれ日本にも生徒間に多様性は存在するからです。そしてその度合いはグローバル化が進む中で高くなっていくことは明らかです。多様性を前提とした授業づくりにシフトすると、これまでの”教員主体”の授業づくりは出来なくなっていくはずです。少なくとも生徒のニーズにもっと敏感に授業を作っていくことが求められるはずです。そして自らの教授法の効果を振り返り、改善し、何か新しい教授法を探し求めることが必要となるはずなのです。

   長々と書いてしまいました。日本の教育がアメリカの教育に劣っている故、そこから多くを学ぶべきだと私は伝えたいわけでは決してありません。日本の教育が更に良いものになるために、アメリカから学べることがあるのだということを伝えたいのです。その一つが”多様性を前提とした授業作り”だと私は思います。日本の教育はこれまで生徒間にある多様性を顧みないでも進めてこられました。いや一見したところの生徒間の”均一性”に甘えて、安住して授業を作ってきたと言えるのではないでしょうか。だからこそ一方的知識伝授型の授業が今でも主流であり続けているのです。この形態の授業では生徒達がこの先生きていく世界で必要な力をつけていないことを教員は自覚するべきです。それを自覚して自ら改革に挑んでいる教員は存在します。自主的に研修等に参加されている先生方です。ですがその割合を教員間で大きくするためには、教員個人だけの努力では限界があります。教員の変革には中からの改革しようとする勢力と、文科省なども外からの改革の勢力が必要です。そして今がまさにその時であることを強く感じます。

 

 

アメリカ大学院で4セメスター終えて-その2

4セメスター勉強してきて驚かされることをあげて行きたいと思います。

1つ目: 支援教育の層の厚さとinclusionという考え方。前にも書いたようにspecial education (支援教育)には13のカテゴリーがありますーlearning disabilities(学習障害), speech or language imperiment(言語障害), other health imperiment(病弱), intellectual disability(知的障害), emortional disturbance(情緒障害) autism(自閉症)、multiple disabilities(複数障害) developmental delay(発達遅延) orthopedic imperiment(肢体不自由)、traumatic brain injury(脳の欠損) deaf-blindness(盲聾)。学齢期の生徒の約12%が支援教育を受けており、前述の13カテゴリーのうち学習障害がその約半分を占めています。        

     学習障害(LD)とは何かご存知ですか?恥ずかしながら私は大学院で学ぶまで学習障がいと知的障害の違いを知りませんでした。学習障がいとは簡単に言うとintelligence(知能)とperformance(成績、実績)の間に著しいギャップがあることを指します。つまり物凄く雄弁に知識豊かにある事について語れる人が、それについて書く事が出来ないという例があります。有名人ではトム・クルーズ、スピルバーグ、ウーピー・ゴールドバーグが自らLDであることを公表しています。LDにはADHD、dyslexia(読書障害)、dysgraphia(書字障害)、dyscalculua (算数障害)などが含まれますが、一見しただけでは分かりづらい障がいであることからアメリカ内であってもまだまだ周知が求められるところですが、日本と比べるとその理解は数倍進んでいると言えるでしょう。

    そしてinclusion(含める)という考え方です。いかなる障害を持っていたとしても、普通教育を受けさせることを大前提とするのです。これは法律で定められています。つまりその生徒が健常児とともに普通教育を受けるには何が必要であるのかを考えて、障害の程度によって、その支援を増やしていくという考え方です。この考え方は1975年以前までは支援教育が普通教育からは全く切り離されて行われてきた事への反省に基づいています。60年代のアメリカにおけるアフリカンアメリカン達の公民権運動の影響から、彼らと同じく"隔離"されている障がい児の公民権獲得のために、親達や教員達が政治を動かして勝ち取った権利なのです。

    支援教育にはお金がとてもかかります。平均1人の支援教育に学区は平均年間180万円(健常児は70万程度)負担しています。親にその負担は課せられません。またinclusion 教育は教員に負担と混乱を招くことも事実です。何故なら障がい児それぞれに立てられた細かい目標(individualized Educational Plan)達成のために担当の支援教育教員だけでなく、担任教員、教科担当教員、当該障がい児の担当の医師等などのコラボレーションが求められるからです。特に支援教育教員と担任教員が毎日のレッスンプランを共同作成しなければならないことに違和感を示す教員も少なくないのです。

     支援教育に対する考え方はアメリカの市民間でも、教員間でも一様ではないようです。しかし彼らが彼らの能力を最高に開花するべく教育の機会が法律で保証されていることで、学校や教員は彼らの教育に義務を果たすことが求められるのです。