アメリカの大学院で4セメスター学んで驚くこと(その6)

テキサス州立大学院で支援教育(Special Education)と識字教育(Reading Education)を学んで驚くことシリーズの最後になります!最後で5つ目になるのは、「アメリカの教員の離職率の高さ」です。ハフィントンポストの記事によると新しく教員になった内の50%が5年以内に退職、または学校を変わっているとあります(ちなみにアメリカの教員には転勤はありません)。詳しくは以下の記事を参照してください:

www.huffingtonpost.com/2014/07/23/teacher-turnover-rate_n_5614972.html http://www.friendshipcircle.org/blog/2012/02/01/the-top-10-challenges-of-special-education-teachers/

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教員の不足は長年アメリカでは問題になっています。そのための施策も国レベルで取られ、そのうちの一つに私もお世話になっています―TEACH Grant と言われるもので、特に教員不足が著しい分野(支援教育、ESL、バイリンガル教育、数学、科学など)の教員になろうとする学生に2年間を限りに年間40万程度支給され、その受給者は卒業後4年間指定された学区で働くことが義務付けられています。指定された学区とは優秀な教員が集まりにくい、つまり貧しい学区で働くことを意味しています。「学区によって教育のレベルが違う」という感覚は日本ではアメリカのようにシビアに感じることはないと思います。日本では府、県レベルで教員が採用試験によって選定、各学校に配置され、さらに転勤もあることから、学校間の教員の質の均一性を保つ仕組みがありますが、アメリカにはこの仕組みはありません。アメリカでは学区ごとや州レベルの採用試験はなく、送られてくる履歴書や面接を通して校長が教員を採用します。それゆえ転勤もありません。こうなると学区が設定する給料や各学校の評判によって教員の質が左右されることは言うまでもありません。つまり裕福な学区に優秀な教員が集まり、そこに長くとどまる傾向がでてくるのです。

 

アメリカでは教員の離職率がなぜこんなにも高いのでしょうか?アメリカで教員免許をとることは日本よりもずっと大変です。例えばテキサス州での教育実習は次の2段階あります:

  • 1段階:Practicum(実習):指導教員のもとで1セメスターに60時間(週5時間)実習校で働く
  • 2段階:Student Teaching(1セメスター間で無給) or Internship (1年間で給料支払われる)

また、アメリカの大学では修得単位数で学費が大きく変動することから「教員になる」というはっきりとした意志のある者しか教員免許を持っていないはずです。目的意識がはっきりあるのに離職率が高い理由は何なのでしょうか?上の記事では教員が職を離れる理由に「サポート体制のなさ」「孤立した労働環境」などが挙げられています。日本でも同じような問題はあるでしょうが、日本では起こった問題を「学年団」というチームで取り組むという体制が出来ていると言えるのではないでしょうか?アメリカでは日本の学校のような「学年団」というコンセプトは希薄なようです。つまり学年団内の生徒間や教員間、また生徒と教員間のつながりが日本のように濃密ではないようです。「持ち上がり」もないようです。新任教員が問題に直面した場合当該教員個人で解決することが求められることが多いのかもしれません。実際に教員としてアメリカで働いた経験がまだないのでこれにははっきりした確証はありません。ただ子供たちが通っている小学校の先生たちや、行事の様子から私が個人的に感じていることです。

 

今の私には保護者としての観察と大学院の授業を通じて得る情報でしか、アメリカの教員事情を知り得ることは出来ませんが、その中で私が考えるアメリカの教員の離職率の高さは「生徒指導のやりづらさ」にあるのではと推測しています。このことについてはこの投稿の一つ前“驚くことの4つ目:停学の数がやたらと多い”でも触れましたが、「銃社会であるが故に、生徒の問題行動に教員達が対峙できない」ことと、「生徒間内の多様性」が生徒の問題行動を複雑にしているのではと私は考えます。これらはあくまでも私の推測でしかありません。実際に自分がアメリカで教員になってみないとわからないことです。

 

「アメリカの教員の離職率の高さ」から日本の教育を振り返ってみたいと思います。日本ではアメリカほど離職率が高くないとしても、若い教員の離職率が高くなっているという報告があります。しかしこれは日本の新入社員全体の離職率が高くなっているという流れから考えると、教員に限ったことではないようです。しかし教員に限って言えることもあります。それは最近メディアでも聞かれるようになった「学校現場の超ブラックな労働環境」です。教員の世界は本業以外の仕事が多すぎて残業、土日出勤が当たり前、あまりの忙しさに本業の授業準備に時間がかけられないという事態が長年続いています。本業以外の仕事の種類と量が年々増えてきて、本来最も時間と精神を注ぐべき授業づくりにそのしわ寄せがいっているのです。これは忌々しき問題です。国の未来に関する問題であると私は思います。なぜなら国の未来は子供達への教育にかかっているからです。前の投稿(アメリカの大学院で4セメスター学んで驚くこと―その5)にも書きましたが、今の日本は教員の“善意”“情熱”に甘えすぎています。教師であれば“善意”や“情熱”があることが当たり前で、“善意”や“情熱”があれば超劣悪な労働環境でもやっていけると考えられているのです。そんな教員を私は沢山知っています。実際教員達は劣悪な労働環境にあっても、自らの様々なことを犠牲にして生徒達への“善意”“情熱”のために身を粉にして働きます。教職とは生徒達への“善意”や“情熱”がなければ務まらない仕事であるけれども、教育行政はそれを当たり前のこことして甘えるべきでは決してありません。教育行政は教員が無理なく本業に専心できる環境整備をするべきです。そして私達国民は教育に国の未来がかかかっていることを認識するべきです。そしてその教育が疲れ果てた教員達に託されていることに大きな危機感を覚えるべきです。教育改革の動きが今の日本では盛んに叫ばれていますが、その改革の内容に「教員が本業に専心出来る物理的環境づくり」が含まれない限り、その改革はこれまでの改革と同じ道をたどるでしょう。多くの現役教員達と新任教員達が持つ「教育を通じて生徒を幸せにしたい」という“情熱”“善意”を長年保っていることができる、そしてそれらを体現化するための授業・行事づくりに専心できる環境整備が、教育改革のためには指導要領改訂よりもずっと重要なのではないかと思います。学校がブラックな労働環境のままであれば、そこに敢えて入って来ようとする教員志望の人数が減ることで教員の質も下がり続けるでしょう。これは既に大阪や東京などの大都市では、すでに指摘されていることです。そして、せっかく採用した教員もブラックな労働環境に耐えられず離職率が高くなっていくことも十分考えられます。離職率が高くなれば、教育の質が下がることは言うまでもありません。繰り返しになりますが、日本の教育改善のためには、教員達の労働環境の改善が大前提なのです。